カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第147回

清ちゃんのつぶやき(その111)三光舎



 今年のツール、面白いものになった。毎日の結果をチェックしていた人も多かったのではなかろうか?理由は優勝候補が数名いたこと、それに日本人選手が二名出場したことにあると思う。当初、正直な話、どこまで走れるのだろうか等と思った。ピレネーやアルプスのステージあたりでリタイヤするのではないかとも考えた。ところが、予想を裏切って毎日残っている。挙句の果てには敢闘賞までもらった。これは快挙である。黄色人種がツールを走り切った、それだけでも今後につながっていく期待が持てた。



 ところで過日、サンプレックスのチェンケースを見つけ出した時に一つのハブが出てきた。三光舎の前ハブである。フロントだけしかない。セミラージフランジのものである。フランジそのものはアルミであるが、胴体の部分は鉄のメッキである。クイックの部分はなかったけれど、カタログで見ると当時のカンパのものにそっくりである。



 三光舎、変速機やハブ、フリーと作っていたメーカーである。プロキオンという有名なディレーラーを知っている人も多いと思う。ところが、意外と皆、実態を知らない。いつ頃からいつ頃まであったメーカーなのか?どのくらいの規模の会社だったのか?なぜなくなってしまったのか?その後、技術者達はどこに行ったのか?周りの者に聞くけれど誰一人知らない。



 有名なエピソードは、そこの社長が非常に自転車に熱心な人で、レースで選手と並走しながら、製品の状況を聞いたといった事くらいである。その他のことは私自身も知らない。三光舎のフロントディレーラーを使っていた事があることは”バニー”の項で述べた。PAやPFのディレーラーは所有している。プロキオンは?と問われると、持っていないとしか答えられない。なぜかと言うとあまり関心がなかったからである。今、考えると手に入れる機会もあった。あの時、買っておけばよかったかな等と今になって思う。三光舎の名が今になっても残っているのはプロキオンがあったからかもしれない。



 なくなったと思える時期、従業員は同じ業種に行っている場合が多い。以前に勤めていた会社にもDNB(大日本機械)で働いていた人達がいた。前にも書いたようにライラックで働いていた人達や光風自転車にいた人達も皆、様々なメーカーに行って、その後、活躍していた。ところが、三光舎で働いていた人達のうわさは聞いたことがない。前の会社の時だったら、聞けば誰かが教えてくれたのだろう等と悔やまれる。



 先の社長のエピソード、そんなに熱心な人だったなら、会社が存続していたならば、もっとすごい製品が出てきていたんだろうと思う。ツールでの様々な機材、そんな熱心な技術者、経営者がレースを支えているのだろうと、ふと、蒸し暑い夏の夜に感じた次第である。

第148回へ続く...

目次

清ちゃんへのお便りをお待ちいたしております。