カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第53回

清ちゃんのつぶやき(その42)光風自転車



 光風(こうふう)自転車というのを聞いた事があるだろうか?ここに一つのエンブレムがある。自転車はケンコー号と呼ばれていた。戦後、自転車やオートバイには○○号と呼ばれていたものが多かった。ホンダだって、カブ号だったし、ドリーム号だった。自転車も例外ではなかった。エンブレムにはKENKOの文字の方が大きく表示されている。このメーカー、東京は足立区にあった。近くに住んでいたこともあって、昔、カタログの住所をたずねて行ったことがある。団地になっていた。



 なくなったのは東京オリンピック後しばらくしてからである。なくなったと言っても、ゼブラ自転車に吸収され、ゼブラケンコーの名は残っていた。光風自転車にはスポーツ車というイメージがつきまとう。実際、当時としてはハイカラ(!)な自転車が揃っていた。国産ディレーラーがまだまだだったせいもあるが、サンプレックス等の変速機を使っていたり、カラーリング等も洗練されたものを持っていた。



 先にブリヂストンが丸正自動車(ライラック)からの優秀なスタッフを受け入れていたという事を書いたが、この光風からは優秀なスタッフが散らばって行った。神田のM社で長年、商品企画をされていたK氏、ロードレーサーで一時代を築いた湘南のM社におられたN氏、その他にもY氏やT氏、それぞれにいろんな道を歩まれた方々がおられた。社長をされていたT氏は日本サイクリング協会の理事をされていた。



 ブリヂストンや光風の方々のすばらしいところは後に続く人たちを育てたことにある。N氏はその後、日本G社の初代社長をされていたが、神田のM社のスタッフには自由にものを考える若さを与えていた。今、少し残念なのは、その後継者が独立されていくことである。



 独立後、人を育てていくにはある程度、範囲に限りがある。やはり組織を利用した方が広範囲に育てていける。ブリヂストンのように今でも会社が残っていれば、それがやりやすい。しかし、組織そのものがなくなった以上、海外に出て行くか、独立の道を選ぶしかなかったのかもしれない。



 日本のスポーツ車は東京オリンピックの後、飛躍的に進歩したと思う。レースに耐えうるフレーム、世界に通用できる部品、本格的なスポーツ車は、そこからスタートしたと考えている。この辺の事は別の機会に述べるとして、当時、いい自転車を作ろうと情熱をもって取り組んだ人々がいた。組織は別々だったが、お互いを意識し、また、ある時は集結して、日本の自転車を世界に通用するものに育ててきた。



 今、その人達から受け継がれてきたものがだんだん分散化し、消滅までとは言えないまでも、忘れ去られようとしているのではないかという気もする。何だかもったいないような気分である。自転車にかけた情熱、飽くなき探究心、それだけは時代がどう変わろうともなくしてはならないものである。日本から製造業がなくなりつつある今、改めて先人達の残したものを見つめ直す必要があるのではないかと感じる。



 たった一つのエンブレム、それを手にとって感じた事である。

第54回へ続く...

目次

清ちゃんへのお便りをお待ちいたしております。