カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第54回

清ちゃんのつぶやき(その43)東京オリンピック



 1964年、東京オリンピックの年、これを機会に日本の自転車産業は飛躍的に進歩した。前回の光風(こうふう)自転車で述べたことである。当時、オリンピックのためにいくつかの組織が作られた。選手の養成はもちろん、自転車そのものの進歩のための組織である。当時の日本の自転車はとにかく遅れていた。今では考えられないことだろうが、まともに欧州と戦えるものがなかった。



 自転車としては欧州からいろいろな自転車が取り寄せられ、フレームや部品が分析・研究された。その中で、イタリアのチネリが与えた影響が大きかったのは有名な話である。当然のことながら、このような研究、一企業がやれる事には限りがある。そこで主に選手に関しては(財)自転車競技連盟、技術的な面は(財)自転車産業振興協会がその窓口をつとめていた。



 当時の状況としてはアルミのクランクはもちろん、パンタグラフ式のディレーラーもまともなものがなかった。スポーツ車といっても、コッターピン(今の人は知らないだろうなぁ)式の鉄のクランク、スライド式のディレーラーが幅をきかしていた時代だった。シマノもフリーホィルやスターメアーチャーのコピーの内装3段を作っているだけのスポーツ車とは無縁のメーカーだった。



 手元にオリンピックに来日した、各国の自転車、部品、メカニック等の記録を繊細に残した「メカニシアン養成講座」という写真のアルバムがある。とにかく、何でも見てやろうという気持ちが伝わってくる。自転車自体の写真はもちろんの事ながら、それに付いているちょっと変わった部品、メカニックが独自に工夫して作った工具や治具までもが記録されている。自転車にはエディメルクスやジモンディの名も見える。



 このような人たちの努力のおかげで三光舎や前田鉄工所(サンツアー)がパンタグラフのディレーラーを作り、杉野がコッターレスの鍛造アルミクランクを作りだしていくことになる。日東のアルミハンドルや三ヶ島や極東のペダル、海野や石渡のフレームパイプ、いろいろなものが世に出ていく事につながってくる。



 今、我々は普通に自転車に乗っている。そして、海外にひけをとらない日本製パーツを使っている。しかし、時には、このように日本の自転車を世界に通用させるために、大変な努力をし、汗を流した先人がいたという事を考えてもいいかもしれない。何にしてもそうであるが、我々は積み重ねられた歴史の上に立っている。

第55回へ続く...

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