カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第297回

清ちゃんのつぶやき(その240)日向往還 上野−矢部(その1)



 さて、そのまま走ると益城に向かう広域農道を横切る。山の尾根を走る感じである。ここら辺りが茶屋本、御船の町から坂を上った頂上付近になる。反対方向から来ても上りきった所、皆、休憩していたのだろう。そこに宮部鼎蔵の生家跡という碑がある。そう、幕末の勤皇の志士であり、吉田松陰とも仲のよかった宮部鼎蔵である。京都・池田屋事件で自刃した。こんな所で生まれたんだ等と思うと何か考えるものがある。そして、そこから一気に谷へと下り始める。勢いよく下り、下り終わった所に今回の目玉(勝手にそう思っている)の一つ、八勢眼鏡橋がある。


標識


宮部生家跡
 現物を見るとすごい、江戸の時代、よくこんなもの作ったものだと感心する。単純な眼鏡橋ではない。よく見ると対岸に横切る橋もある。単なる一つの川を渡る橋ではなく、直角方向からくる支流にかかる橋もあり、それを横切るように井出(取水路)まで作ってある。つまり3つの橋(それぞれに目的が違う)を見る事ができる。そして何百年後の今、それがまだ(クルマのために横に一つ橋があるが)使われている。素晴らしい事だと思う。昔の人もここで座りこんでいたかもしれないと思い、座って橋を眺めていた。しかし、この橋、一民間人(御船の豪商)が私財を投じて作ったものである。


八勢眼鏡橋


八勢眼鏡橋(2)
 川が増水し人々が難儀するという事で作られた。江戸の時代、防衛のためもあって、勝手に橋など作れなかった。それでもそれを陳情し、許可を得、私財を投じて作られた。そして今になってもその名を残している。これはこの橋に限らずだが、有名な矢部の通潤橋や砥用の霊台橋もそうである。惣庄屋や豪商といった民間人である。昔の金持ちは偉かった。これは戦後しばらくもそうで、例えば年末になると貧しい家庭に餅を配っていたといった話も聞く。水戸黄門に出てくる悪徳庄屋や近江屋、越後屋みたいなものとは違うのである。


石段


石段(2)
 今、貧富の差(経済格差というらしい)が云々されたりしているが、それでも今の金持ちが民間のために私財を投じるといった話はほとんど聞かない。地方自治体に寄付という形になるだろうが、昔程の金額ではない。昔は貧しい百姓でさえ、更にその下層のために田の稲を全て刈り取らずに残しておいた。更にその人々は雀などの鳥達のために稲を少し残していた。弱者に対しての思いやりがあった。


石畳
 貧富の差があっても(あったがためだったのかもしれない)、そんな他人や鳥にさえ思いやりの心を持っていたのが日本人だった。これは先の宮部鼎蔵にも言えるが、日本を如何にして良くしていくのか、本当に命がけで活動していた、実際、45歳の若さで亡くなった。そんな人達が、そんな日本人が残してくれた今の日本。国会の論議等を見ていると情けない想いがする。本当に国のため、身を切り、命をかけて、無給ででも働く国会議員がいても然りなのだが、自己利益や政党利益、目先の利益に目を奪われてしまっている現状に情けないという思いがするし、先人達に申し訳ない気がする。


案内表示


六里木跡
 長くなってしまいそうだが、橋の袂で考えた事がそんな事だった。時折、地元のクルマが通っていくが、緑に包まれ、川のせせらぎを聞きながらしばらく一人でいた。さて、先に進もうと見ると、何と階段である。多少は覚悟していたが、石段を前にすると少し迷う。それでも自転車を担がなければ進めない。どっこらしょと言いながら階段を上り始めた。途中から段差は低くなって石畳となっていく。昔は上り口もそれくらい緩やかだったと思う。そうでなければ荷馬車を引いては上れない。苔むした石畳が続く。開けた所に出て少し行くと六里木跡の碑があった。



第298回へ続く...

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