カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記




第307回

清ちゃんのつぶやき(その250)日向往還 矢部−馬見原(その3)



 2つのルートの内、一つはどうも途中で切れている感じがした。これまで走っていると妙な勘が生じて、何となく分かるようになってきている。一つは川沿い、一つは山方向に向かう道、後者を選んだ。少しきつい坂だがインナーにして上っていく。上りつめた所で栗林、標識から幣立神宮が近い事が分かる。そこから218号線に突き当たる。横切るのだが、ここで、またもや、ちょっとぉ!である。確かにガードレールは上方向になっていて道らしきものがあるのだが、草むらである。国道側は刈ってあるのに・・・。


幣立神宮近く


大野分岐
 豊後街道の時はこんな事はほとんどなかった。今日だけでもいくつの草むらを走破しなければならないのだろう?今も生活道路として使われているのであれば、また、街道歩きをする人が多ければこんな事にはなっていないのだろう。豊後や豊前街道は地元の人達が奉仕作業で草刈り整備をしている所もあるが、日向往還では春のウォークラリー以外では通る人もいないのかもしれない。


往還道は左


道の跡?
 馬見原まで目と鼻の先だが、ここまできたらショートカットしても意味がない。とにかく、進む事に決めた。草むらの中を上っていく。だんだんと深くなっていく。膝までだったのが、腰まで、さらに腰より高い草むらをかき分けて上っていく。半分やけ気味になる。途切れた所に三差路、古い石標がある。これなんだよなぁ・・・。


工事中横にある道標


番所跡
 最近、いろんな所で石標や石塔があるとつい見てしまう。田舎だと田畑の区画整理や灌漑用水路の竣工記念碑などが多いが、中には意外な偉人の功績碑があったりする。また、日露戦争の碑もあるし、歌碑もあったりする。分岐等では猿田彦や庚申塔(庚申塔は熊本は意外と少ないような気もする)もあって興味が尽きない。石標では作った年号も彫ってある場合も多く、元号で江戸の中期や末期とか少しずつ分かるようになってきた。中には飢饉の前の年だ、あの事件の後だとか時代背景も不思議と見えてくるようになった。


馬見原宿


馬見原新町
 とにかくここが籠置き場だった事は間違いない。一帯だけは草がないが、その後も道は荒れている。国道に出た時にはほっとした。国道を更に横切り進んでいくと道路工事中、工事現場の横に日向往還の道標、作業員はあっちと迂回路を指さしたが、自分はその道標の道を行きたいと指して、工事車両を止めてもらい通してもらった。すんまへん。その先は急な短い下り、つい自転車を降りてしまった程の坂である。降りた所が番所跡へ向かう道、ここは注連縄を張ってある夫婦岩をくぐって橋を渡る。すると馬見原の宿である。着いた!やっと着いた!


日向往還モニュメント


街中の日向往還
 石畳の旧宿場町が再現されている。左右の建物も統一感をもたせてある。いろいろ町中を探索するとあるある、表札場跡とか椎葉往還への道標、時代によって位置が変わった番所跡とか、地蔵堂、見る所も多い。昔はここから南阿蘇の高森方面、延岡に向かう高千穂方面、それに熊本に向かう矢部方面、さらに南日向山岳部へ向かう椎葉方面と各地に繋がっていた。交通の要所だったのである。今で言えば大型交通センターだろうか?その為、運搬や運送に使う馬が2000頭以上もおり、そこから馬見原という名がついたと云う事である。


馬見原番所手前の坂


道標のある三叉路
 ちょっと小腹も空いたのでコロッケを売っている店で一個だけ買う。「どちらからですか?」と聞かれたので、熊本から、今日は矢部から日向往還を辿ってきたと話すと納得したように笑っていた。そこで気がついたが、膝あたりから下は泥が付き、靴紐にも草が絡みついている。いやはや、何とも・・・不審に思われるのも仕方がない。ベンチを見つけ座ってコロッケを食べながら空を仰ぎ見る。さきほどまで日が射したり、黒い雲が出てきたりとしていたが、ふと見ると一面の青空になっていた。初秋の雲が空に筋を描いていた。


218号線からの入口

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第309回へ続く...

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