カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第272回

清ちゃんのつぶやき(その221)豊後街道(今市−鶴崎)その2



 さて前回の続き、船着き場跡ではあまり昔を偲ぶことができなかった。気を取り直して近くの肥後藩茶屋跡に行ってみる。ここも小学校と高校になっている。小学校の門の所に碑がある。ちょうど下校時間で、写真を撮っていると子供達が賑やかに声をかけていった。茶屋跡はものすごい広さの敷地(要するに学校二つ分!)である。学校の間には竜馬と勝海舟が泊まったところと表示がしてある。茶屋というと休憩所と思われがちだが、ここは宿泊や食事もでき、他にもいろいろな当時の行政機関が入っていたところである。本陣といっても差し支えない。


鶴崎茶屋跡
 この一帯、肥後藩領で、当時に建立した寺院も多い。側のお寺に行くとなんと加藤清正公と対面してしまった。もちろん像だが、九州の東の果てでご対面するとは夢にも思わなかった。近くを散策していると夕暮れが迫ってきた。時間は午後4時、今夜は442号線から少し入った塚野鉱泉という所に目をつけていた。昔からの湯治宿も2,3軒あるという事も知っていた。泊まれればそこに、駄目なら一風呂浴びて引き返し、大分市内のビジネスホテルにでも行けばいいと考えていた。


学校間の歩道
 鶴崎を後にして豊後街道跡を捜しながらひた走る、幸い平地でもあり、いいペースで走る事ができる。川側の堤防を走ったりもする。夕暮れで散歩している人、ジョギングしている人も多い。川の名は七瀬川、つまり、川を渡らねばならなかった所が7か所もあった、と云う事である。山を越え、谷を下り、そうして川まで渡らなければならなかったのである。本当に大変な旅だった事がうかがえる。日暮れが迫ってくる頃、目的の塚野鉱泉の入口に着いた。1キロ程山に入ると小さな温泉宿があった。


清正公像
 幸運にも最初に声をかけた人が旅館経営者だった。即OK、食事もできるとの事だった。温泉は共同湯、昔の温泉形態である。4,5人しか入れないような湯船、まさしく湯治湯である。泉質はあれこれ書いてあるが、塩味の炭酸泉といった、これまで味わったことのないものだった。大分には様々な泉質の温泉があるものだ。確かに胃腸病には効くだろう、これで1泊2食で5350円とは安い!食事後もう一度湯に浸かり、霊泉を飲み、今日間違えたルートを確認して眠りについた。明日は必ず野津原の宿を通らねばならない。


七瀬川
 ところで唐突に、このところ豊後街道の事を書き続けてと思っておられる方もいると思う。久住以前の文や写真は?と聞かれると、ないとしか言いようがない。実は当初、まさか豊後街道を走破しようなどとは思ってもいなかった。豊後街道も大津や菊陽、それに内牧の方は走ったことがあった。ミルクロードに入った直後には清正公街道と呼ばれる国道に沿った公園もある。そのように断片的には走ったことがあった。


塚野鉱泉路地
 きっかけは熊本城に春需後、オープンしたての城彩苑(観光施設)に行った事による。城の周囲を走っていると、近くの新町に里程元標がある。ここから豊前、豊後、薩摩の街道、更には日向や益城、南郷の往還が続いていたんだとか思いながら、ぶらりと浄行寺交差点から熊本大学方面に向かった。へぇここが一里木跡か、ここが二里木跡、といった具合に少し走った。その後も気が向いた時に三里木やその先を走ったりしていた。


里程元標
 大分まで行ってみたいと思うようになったのは、以前書いた阿蘇ラピュタ時に二重の峠を下った時だろうか、遠くに見える阿蘇五岳、竜馬も勝海舟も見た景色に想いをよせた時かもしれない。それ以前に坂梨の宿やそれに続く道も走っていて興味は持っていた。久住も周辺の温泉にはよく行っていて地理には明るかった。それにしても、意識しはじめてからは普段何気なく通り過ごしていた場所が史跡だったり、街道跡だったりと気付く事も多かった。


野津原神社参道
 さて翌日、天気もいい。朝食後、一風呂浴びて出発する。玄関先では門松作りの準備をしていた。国道まで戻り、街道跡を通る。鶴崎から一番離れた一の瀬に来る。もちろん今は橋がかかって、渡し船などないが、水面を見ていると、川の増水時には大変だっただろうと想像する。やがて野津原の交差点が見える。ここから上るようにして町中へと向かう。旧宿場町の面影はある。ここも当時は重要な宿、野津原神社の奥、小学校が御茶屋跡である。近辺には寺も多い。野津原を後にして坂を上っていると案内板。町中にはなかったがここにはある。それに従って上る。途中、石畳が残っている。


野津原より
 誰にも会わず、一人で山道を歩くことにも馴れてしまった。一人でいると昔の旅人の心が伝わってくるような気がする。雨の日にもこんな所を歩いていたんだなぁ等と思ったりもする。山道を歩いていると途中で妙な予感がした。ひょっとしたらと思い、足を速めると、あった! 昨日、引き返した地点の地蔵堂である。本では先は廃道と書いてあったが、行けるではないか、本の後、野津原商工会で旧街道を整備し、通れるようにして案内板を設置したのではないかと思う。とにかく、これで全ての道が繋がった。やっと豊後街道を走破したことになる。昨日、お地蔵さんにお参りしておいてよかった。


石畳への山道
 これで年内に豊後街道走破するという目的は達した。いい思い出と達成感を味わう事ができた。思い起こせば鶴崎までは長い道のりだった。それでも参勤交代の一行は更に瀬戸内海を80隻の手こぎ船で神戸まで渡っていくのである。そうして、それからは東海道を尾張、駿府と歩き、大井川を渡り、箱根を越え、江戸まで行くのである。行ったら行ったで今度は帰らなければならない。その行程を思うと本当に関心する。悪天候の日もあっただろう、そんな事を考えると山道で石畳というのも理解できる。


一枚板の小さな石橋
 今回、街道を走ってみたことによって得たこともたくさんある。昔の人のすごさや苦労、それを少しばかり味わうこともできた。それに街道歩きをする人達も意外と多いことも知った。地域によっては旧街道を大切に保存しているところもある。これこそ歴史遺産である。今回の豊後街道、願わくば、街道全線を復活できないものかと思う。熊本市街地はもう無理かもしれないが、坂梨から波野までの道や久住の一部だけでもいい。何とかならないものだろうか。


又も石畳
 熊本では年中行事として小学生が夏休みを利用して豊後街道1週間の旅に出る。並木坂店前を通って熊本城に帰ってくるのだが、すでに泣いている子もいる。九州山地を越え、長い、長い旅を終えて見る熊本城、体験した者でなければ味わえない感動がある。この感動、小学生だけに味わわせてはもったいない、大人だってもっと味わっていい。もちろん区間によってはコンビニ一つない所も多い。それでも喉が乾いたら沢の水を飲み、景色を見ながら握り飯を頬張る、そんな自然に適応した旅も逆に楽しいかと思う。


地蔵堂
 今年も今日の大晦日で終わろうとしている。今年は山陰地方の豪雪に始まり、新燃岳噴火、東日本大震災、水害等、数々の自然災害もあった。便利になりすぎた生活に浸り過ぎた我々に対して地球は警告を与えてくれたと思いたい。もっと自然に対して謙虚に向き合ってもいい、そんな意識を植え付けてくれた。かといって、江戸時代のように電気も水道もない生活というのは考えられない。今さら自給自足の生活をしろと言っても無理だろう。今回、街道を辿る事により当時の生活の苦しさや豊かさを感じる事ができた。それを感じたうえで現代の我々の生活を見直すというのも一つの手だろうかと思う。



 元旦に新春スペシャルと称してツーリング特集を書いた。今年の締めくくりも豊後街道と云う形でツーリングである。我々は本当にいい趣味を持っていると思う。自転車という手段で自然を楽しむ事ができる。自然を壊さぬように楽しむ事ができる。もっと他の人達も自分の力で、自分の足で母なる大地を駆け抜けてもいいのではないかとも思う。知らない土地に行き、そこで感じる事、それはその人の財産にもなり得る。人によっては人生の転換にもなるかもしれない。モノの考え方も変わるかもしれない。自転車というたった一つの道具で変わるかもしれない。自転車はそんな可能性も秘めている。



 さあ、もうすぐ新しい年の幕開けです。今年得た教訓をバネにして、大きく羽ばたいていきたいものです。本当に今年一年、ありがとうございました。2012年、皆さまにとっていい年であるように心より願っております。



(豊後街道の項 完)



第273回へ続く...

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