カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第245回

清ちゃんのつぶやき(その194)古(いにしえ)の道



 もう3週間も土日が雨という状態が続いている(今度の土日も雨の予報が出ている)。走りたい人にとってはうっぷんが溜まってきているのではないかと思う。我々の場合、平日休みだが、平日でも雨でなかなか自転車に乗れない。半月前も起床した時には霧雨程度、路面も濡れていない状態だったので、これなら薄手のカッパで出かけられると思っていたら、急にバケツの水をひっくり返したような豪雨になって断念した。仕方なく本を数冊持ってクルマで温泉に出かけた。家で読むより自然の中にクルマを停めて読むほうが梅雨のこの時期だと気が滅入らずに済む。



 しばらく前から街道や往還の本、パンフレットを買ったり集めている。以前からなぜか昔の道にはただならぬ興味を持っていた。なぜだか分からないが道には人を魅了するものがある。先日、加久藤峠の旧道を調べた時、国道マニアや旧道マニアそれに廃道マニアなど道に興味を持っている人がたくさんいることを知った。そう言えば“薩摩街道を歩こう”とか、“日向往還ウォークラリー”というイベントなども熊本で催され、たくさんの人が参加している。



 ランドナーに乗り始めて気がついた事、それは道を選ばないといったことである。途中、いきなり舗道が切れていても慌てずに済む。砂利道や泥濘だって平気である。これで走る道の範囲がいきなり広がった。荷物も積めるし、ライトだって装備している。ロードで走っていた頃とは違った道を走ることができるようになった。昔やっていた峠越えも少しずつ思い出してきた。



 時々通る、コーナーが連続してある道にショートカットして新しい道ができた。クルマだとハンドル操作が省けて楽だし安全である。でも自転車で走る場合は元の道を走ってしまう。同じ標高を稼ぐのであれば、くねくねとした旧道の方が勾配が穏やかになっている。元来、人や動物がどこかに行く時、無意識に通りやすい方向、楽に通れる所を選んでいた。それが何人も何匹も通る事により草がなくなり、より多くの人や動物が通れるようになる。こうして出来あがるのが道である。徒歩の時代の道は徒歩でなくとも自転車でも走りやすい。



 人々がクルマで移動する事が多くなり、次第に道は徒歩や自転車では通りにくいものになってきた。所謂、旧道やら街道、往還、古道と呼ばれる道には昔の人の生活の匂いがあった。様々な人のドラマや人生があった。宿場町では宿場町の街並み、峠の頂上の茶屋には峠を越えた人々の安堵感が今も漂う。途中には旅の安全を祈るお地蔵さんと木陰があった。先のラピュタや矢岳越え、加久藤峠など山間部には途中、喉を潤す水飲み場があった。数知れない人々がそこを通っていたのである。



 今のクルマのための新しく広い道にはせいぜいコンビニかガソリンスタンド(それもセルフ)くらいしかない。夏はアスファルトの異常な照り返し、徒歩や自転車では苦痛以外のなにものでもない。人々の生活臭や旅情がないのである。道マニアの人達はそんな現代の道への反発からきているのかもしれない。熊本は新幹線が開通した。新幹線もいいけれど、SLだって大人気である(SL人吉というのがあって数カ月先まで予約が一杯と聞く)。早く移動するのもいいけれど、ゆっくり走るのもそれはそれで楽しいものがある。



第246回へ続く...

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