カガワの自転車
清ちゃんの
オーバーホール日記



第110回

清ちゃんのつぶやき(その83)英国 ラレー(1)



 一年程前からTVをあまり見ないようにしている。つい、スイッチを入れるが、くだらない番組が多すぎる。何もないと静かすぎるので、CDを聞いたり、ラジオを聞いたりしている。これが結構、他の事もできるという効果がある。TVだとつい画面をだらだらと見がちだが、音だけだとそれがない。先ほど、ラジオを聴いていたら懐かしい曲が流れていた。バカラの「誘惑のブギ」という曲だが、急にいろんな事を思い出した。内容を変更して、自転車には関係ないことを今回、少し書いてみたい。



 この曲がヒットしていたのは1978年。今から30年も前の事である。この年、イギリスに行った。年を覚えているのは、この年の3月、成田空港がオープンする予定だったからである。初めての海外出張だった。行先はラレーという会社。今ではジャイアントが世界最大のメーカーだが、当時はラレーが最大のメーカーだった。かっての植民地であるアメリカやカナダ、南アフリカと世界各地に拠点を持っていた。



 一足先に先輩が現地に行っていた。それを追いかけての一人旅である。たいした不安もなく、羽田空港に向かった。その後、一度もなかったが、部長が見送りについてきてくれた。今、考えると心配だったのだろうと思う。赤絨毯(海外に行く人のみが通る通路だった)を歩き、飛行機に乗った。その後、紆余曲折はあったものの(別の機会に書いてみたい)、イギリスに着いた。ここでいろんな意味でのカルチャーショックを受けた。イミグレーションからつまずいた。



 英語も少しは分かると思っていた。高校時代、佐世保に住んでいたことがある。米軍の基地があり、街には外国人がたくさんいた。何か聞かれても返事を返すことも出来ていた。話しかけても返事を返してくれていた。ところが、イギリスに来たとたん、相手の言っていることがよく分からない。英語と米語の違いや、佐世保のアメリカ人が日本人に分かりやすい米語を話してくれていた事を知るのは、もう少し後のことである。



 なんとか、先輩とも落ち合い、ノッティンガムのラレーに向かった。店での買い物、食事でさえも、ただひたすら日本とは違うというカルチャーショックでいっぱいだった。ラレー工場でもそれは続いた。今ではどうなっているのか知らないが、当時は階級制度が色濃く残っていた。ワークスマンと呼ばれる労働者階級、スタッフと呼ばれる中間管理職、それに部長以上のクラスと食堂さえもはっきり分かれていた。我々はスタッフ待遇で専属の人がついていてくれた。会社の入り口でさえ別である。



 ある日、ワークスマンの数人と仲良くなっていたので、彼らの食堂で食事をしたいと専属の人に話してみた。ところが、上司の許可がいるとのことだった。最終的には食事ができたが、一つ、一つがこのような調子だった。ワークスマンで優秀な人がいても、スタッフ止まり、それ以上、上りつめるには無理な時代だった。ビートルズが勲章をもらった時、反対の声が一部であったというが、そんな事を肌で理解できた。ワークスマンが直接、重役に声をかけることもないし、その逆もない。

第111回へ続く...

目次

清ちゃんへのお便りをお待ちいたしております。